「門」
作者:葉桜深月



「行くのか…」
眼前に出された書状。
それの内容は見なくとも容易く推察できた。
久しぶりに話がある、と陰陽寮を訪れた友の為に仕事を早く切り上げ、2人で酒を酌み交わして少しの時が
過ぎてから何も言わずに渡された書状。
懐からそれを出す時の友の表情は何か…悟りを開いた者のような迷いの無い涼やかな顔だった。
「後は…頼む」
居住まいを正して深々と頭を下げる友。
私は軽く手を振って苦笑いをした。
「私とお前の仲だ。そんな事はするな」
友の杯に酒を注いでやってから、私は己の杯を一気に飲み干し、息をつく。
強い酒は喉を灼きながら通りすぎて胃を満たす。
そして友が差し出す徳利を杯で受けながらも言葉を紡いだ。
「邪気、か…お前が動かねばならない程のものなのか…?」
ここより遥か西。
そこに凶の兆しが現れ始めている事は陰陽寮に属する星見達によって予見されており、報告も上がってきている。
しかし、その西国とは以前より険悪な外交状態であって度々小競り合いを広げていた。
忍達の動きからもはや戦は回避できないという事も知っていた。
「あれ程の凶星を俺は見た事が無い。しかもあの凶星は西国だけではなく周囲の国にまで及ぶ恐れがある」
静かに語る友。
「だが、凶星は問題ではない。あれを出現させた者は…上野の地にいる」
「なに…?」
星見達ですら予見する事ができなかった凶の本拠。
それを容易く看破した友の力量。
戦が近づいている時にその力を失うのは痛い…
けれど、友の決意に水を差せるはずもなく、私は軽く眉をひそめただけであった。
「魔は元から断たねばならん。このままでは…罪無き民が苦しみ続ける事になる。それだけは…許せん」
そっと空になった杯を床に置いて、友は告げた。
その、倒すべき敵の名を。
「司夢理。夢に潜みて災いを為す古妖」
「馬鹿なっ!!アレは富士の霊脈によって遥かな昔に封じられていたのではなかったのか?」
衝撃と共に思わず強い口調で言ってしまう。
陰陽に伝わる古い文献にその名が記されている妖怪。
姿形は様々に言われており、正確なそれを知る者はいない。
しかし、神職や僧。
それらの間にさえ禁忌としてその名が伝えられる程に有名で、禍々しい名だ。
「富士…いや、そうか……以前に起きた、あの騒ぎか?」
霊峰富士。
それが揺らぐ事件が1年程前に起こった。
他国である為に正確な事は手練の忍でさえ掴みきれていない。
事件の全容も要として知れず、それが本当に起こったことであるのかどうかさえも定かではない。
しかし、その国に尋常ではない妖気が発した事は事実で、陰陽、神職、僧。
それらの間ではその事件は起こったとして認識されていた。
起こりはしたが、たまたまなのか…神の意思が動いたのか…すぐに沈静化したそれ。
「ああ。表面的には全くその残滓すら残っていない騒ぎ。今川義元公の座する駿府城が異界と繋がった騒ぎだ」
駿府城の異界との連結。
だがそれはそう言われているだけで、正確な事実かどうかは分からない。
他国の者がわかるのは駿府に強大な妖気が発し、わずか数日で消え去ったという事だけだ。
曰く、義元公が怨霊となった。
曰く、駿府は魔界と化して物の怪が城下に溢れた。
曰く、尋常ではない力を持った者が幾人も現れ、有志と共に戦った。
曰く、曰く、曰く…
そんな情報だけは伝わったが、現在は義元公は健在でそんな話など夢物語であったかのようだ。
駿府もそんな物の怪が溢れて猛威を振るったにしてはまるで以前と変わらない。
だが…その影に司夢理がいるというのならば納得できる話であった。
夢を支配する古妖。
ヤツであるのならば駿府にいる人々を操り、妖気で夢と現の区別を危うくさせる事さえ容易いだろう。
そしてわずかな時間を稼ぎ、富士の霊脈に傷をつけたのだろう。
元々の結界が長い年月を経て緩んでいたのか…それとも何者かの手によるものか…
それはわからないが、友の確信に満ちた眼差しはそれらを物語っている。
「このままでは、西に浮かぶ凶星は東、南、北。総てに顕在化してこの世を魔界と化す。そうなる前に司夢理を
討たねばならん。既に強い影響の元にある上杉家は…存続すら危うい」
少し前の戦で大敗を喫し、上野を失った上杉家。
話によれば上杉家の者は何かに執りつかれたかのように、精彩を欠いていたという。
そして今、本拠である越後に武田家と北条家による挟撃を受けていて…滅亡も時間の問題だと思われていた。
自分の国を自分の国として考えなければ不自然な点がいくつもあった。
しかし、何が起こるかわからぬのが戦国の世。
その先入観でそれらを考えもしなかった自分の身を、恥じた。
友は続ける。
「そういう、事だ。俺の代わりはもうすぐ帰ってくるあいつでも任せるといい」
その言葉で私は一人の青年の顔を思い出した。
気の強そうな、信念を持った瞳をした青年。
同年代の陰陽師の中でも飛びぬけた才能を持っていながら…いや、持っていたからこそ…この国で得られる
知識だけに満足せず、他国へと修行と称して出奔していった青年。
青年は友を師匠と呼び、友も青年を弟子として教えられる事のほぼ総てを叩き込んだと言っていた。
後は経験を積めば俺を軽く越えるかもしれぬ。
嬉しそうに笑いながら言っていた友の顔を思い出す。
「戻ってくるまで…待てないのか?」
青年が出奔していった先の陰陽頭からの手紙を思い出しながら、問う。
けれど友は静かに首を振った。
「猶予は無い。友好国への陰陽寮への根回しは、頼んだぞ」
「わかった」
各地に魔を封じる結界を張る。
それが友から頼まれた唯一の事だった。
無数に点在させた結界を編み、さらなる巨大な結界とする。
そうして力を殺いで再び魔を封じる。
それを聞いた時に改めて友の力に感嘆し、承諾した。
しかし…
「生きて、帰ってこれるかどうか…わからないのだぞ?」
今生の別れ。
すでに場を支配しているそんな空気を振り払うように告げる。
だが…友は笑った。
「いいさ。それでも」
晴れやかな笑顔に胸が詰まる。
自分も陰陽を統率する立場でさえ無ければ…
そんな言葉が漏れそうになる。
けれど、言えなかった。
言えば…何もかも捨てて友に同行しようとするだろう。
それでは、わざわざ出奔してまで世の為に尽くそうとしている友の意志を無駄にする事になる。
昔から、こういう奴だった。
出世欲には程遠く、力を磨くのは誰かの為。
国に仕える陰陽師としての仕事は殆どやらないくせに、市井の面倒事には首を突っ込む。
いきなり弟子をとったかと思えば、その弟子が出奔すると言い出した時に真っ先に領主や周囲に根回しをして
さしたる障害も無しに青年を出奔させたりもする。
私はそんな奔放で、けれど信念を持った友の生き方が好きだった。
友に言わせれば私は堅物であるから、信頼できるのだと言う。
「わかった…もはや、何も言うまい……生きて…生きて、帰れよ?」
立ち上がった友に声をかける。
友は振り返って、知らぬ間に涙が溢れていた私の顔を見て、少しだけ驚いて…それから、笑った。
「縁があれば、今生でいずれ会おう。さらばだ……我が、良き友よ」
瞬時に姿を消して闇へと消えた。
部屋を軽い風がそよいで生暖かい夜風を乱す。
私はゆっくりと立ち上がってから酒宴の名残を片付け、縁側に立った。
夜空は星に彩られ、凶兆など欠片も無いように見える。
しかし、陰陽の知識を得ている私には西の方角に一つ、巨大な凶つ星が妖しく瞬くのがわかってしまう。
ぐるりと天を見渡せば、友の言った通りに残る三方に小さな凶つ星が見えた。
それらは数日前まで存在していなかったもので、刻々とその存在を強めているように感じられた…
友が最後に見せた笑顔。
そこに篭められた万感の想いを胸に抱いて私は机に座り、書物を開いた。
何か手助けできる事があれば…
何か、魔に対する有効な手段があれば…
そう思いながら次々と読み進めていく。
いつのまにか夜も更けて、傍らには積み重ねられた書物が山のようになっていた。
そしてそれから少しの時間が過ぎた時、私は何かの気配を察して…その気配が懐かしいものである事に
気づいて軽い笑みを漏らした。
(帰ってきたか…入れ違いとは、お前らしいな…全く)
部屋の隅へと移動していく気配に律儀な事だ…そう心の中で苦笑しながら私は書をめくる手を休めて、
お帰り…そう、思いを篭めて…口を開いた。

「…何者か。書見の邪魔だ。」









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