業務連絡
08/01/06
なんかこのblogサービス自体が今月いっぱいあたりを目処に終了するっぽいので,仁義として一応報告.細かいところは↓
http://pc11.2ch.net/test/read.cgi/blog/1114837886/l50
断言してるわけではないのだがおそらく終了だと思われる.
バックアップを取ったところでどこかに流用できるわけではない.
細かい話をすると,データ形式が特殊すぎて変換自体がおそらく相当厳しい.記事内容とコメントとトラックバックが別ファイルとして管理されてるので,別のサービスの形式に合わせるにもそれらを一回突き合わせて処理せにゃならんのがめんどくさすぎるくさい.
そういうわけで,このままインターネットの海の藻屑と消える可能性が高いわけです.
まあInternetArchiveもあることだし,参照すること自体はおそらくどうにかなるでしょう.
以上でこのblogを書いていた人間の義務としての報告を終了させていただきます.
いい加減不義理を続けるのもアレなので,はてなのほうと合わせて
1年以上もほったらかしてた人間が言うのもアレですが,閲覧してくださった皆様,ありがとうございました.
一応メールは生きてます(というか色々使ってる)し,コメントも今月末までは一応チェックしておきますので,どうしてもなにかあるのならばそちらへ.
今まで一度も会ったことはなく,これから一度も会うことはないrgyというHNを知る皆様へ.
「では,失礼」
追記:うん,Twitterやってみたら性にあったのでそっちで生き残ることにしたんだ,すまない.謝って許して貰おうとも思っていない.
まあそんな感じで.
前言を無造作に翻す大人げない人間ですまない.
「恥ずかしい奴がいるぞ!」と言われたら恥ずかしすぎて悶える.
まあそういうことだ.
本当にすまない.
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ソーシャルブックマークを用いた検索に関する一考察
06/07/27
そもそもの発端は,ワールドカップが終わって二日後,唐突にジダンの頭突きの動画が見たいと思ったことにある.その前日(つまりはワールドカップの翌日)に,どこかのサイトでYouTubeにその動画が上がっていることが紹介されていたのを見ていた.
しかし,そのサイトがどこなのか,またそのサイトをどうやって見つけたのか思い出せなかった.
そこでふと思い立ち,はてなブックマークで「ジダン」のタグを検索してみたところ,容易にそのサイトを見つけることができ,再びあの鮮やかな頭突きを見ることができた.
しかし,検索をするだけならば検索エンジンを使えばいいように思えるし,紹介していたサイトを見つけたいならばいつも使っているニュースサイトをしらみつぶしに探せば確実に見つけることが可能だろう.
当方はこの選択を無意識に行ったが,おそらくこれが今回の場合には目的への最短の到達手段であったと考えている.
この点について,検索エンジン,ソーシャルブックマーク,ニュースサイトという三つの特性の違いから説明を試みる.
また,本エントリで単に「ニュースサイト」と言う場合には,新聞社が運営するものと,いわゆる羅列型ニュースサイトの両方が含まれていることを述べておく.
まず大前提として,ニュースサイトと検索エンジンは対立項にあると言える.
ニュースサイトには強力な速報能力を持つが,代わりに検索能力が著しく低い.
これに対して検索エンジンは強力な検索能力を持つが,速報能力に欠ける.
ではなぜ速報能力と検索能力が相反するのかといえば,それは検索能力の本質が,検索対象の他との関係の把握にあるためである.
この最も顕著な例としてGoogleの基本となるアルゴリズムが挙げられる.
このアルゴリズムにおいては他との関係をリンク数という観点から把握し,その被リンク数が多いページを信頼できるものと見なす.そして,このような重み付けを行うためには,一旦全ての情報を把握し,その後にそれらの相互関係を把握(処理)する過程(=時間)を必要とする.
よって,速報能力を重視するということは,情報を重み付けすることなく垂れ流すことに等しい.そして,意味的な重み付けがされていない検索は,検索したい単語の頻出回数によってのみ検索が実行されることになるが,この検索に有用性が低いことはこれまでの検索エンジンの歴史から明らかである.また,起きた当時はたいしたことではない,と思われていたのに後々になってみると非常に重要な事象の前兆だった,ということは多々ある.
つまり,速報能力を重視すれば,その情報と他との関係を考慮に入れることが極端に困難になり,速報能力と検索能力は相反するものとならざるを得ない.
このことから,速報能力は高いが検索能力が低いニュースサイトと,速報能力は低いが検索能力が高い検索エンジンという二極化を見ることができる.
では,ソーシャルブックマークはどの位置にあるのか?
おそらくはニュースサイトと検索エンジンの中間点にあると考える.
ソーシャルブックマークは,常に誰かがブックマークをするまで,そのニュースは登録されないために,速報能力では一次ソースである企業によって運営されたニュースサイトには当然劣り,羅列型ニュースサイトに対しては,ソーシャルブックマークは嗜好面でのフィルタリングが行われていないため,全く興味の無い情報が大量に含まれる.自分以外のユーザのブックマークをインポートすることでこの欠点は解消可能であるが,欠点が解消されるに十分なインポートを行うまで非常に手間がかかり,この点でも,嗜好に合うサイトを一つ見つけ出せば大抵それで賄えるという点で羅列型ニュースサイトに劣る.検索能力では,単に検索するだけならば検索エンジンで十分であるし,タグによる検索は,誰かが検索対象に選んだ文字列のタグをつけているという前提を必要とする.
この意味において,ソーシャルブックマークは速報能力に欠け,検索能力は限定され,と中途半端なものであると言わざるを得ない.
しかし,だからといってソーシャルブックマークがそれ以外の二者に劣るわけではないと考える.
ソーシャルブックマークは二者の中間に立っていることが強みであり,その強みは,このエントリの最初に書いたような状況,つまり,「断片的なイメージとして記憶された情報」において発揮され,さらにそれが「最新ではなく,しかし十分には時間が経過していない情報」ならば,より有効性を発揮する.以下でその説明を行うが,まず,説明が容易な後者について述べる.
最新の情報がソーシャルブックマークを用いて検索することが難しいことは前述した.十分に時間が経過したならば,それはいわば「過去の情報」にカテゴライズされ,今度は同程度に注目された,同種の大量の過去の情報の中に埋没する可能性があり,何よりも過去の情報を検索するという点においては,人力をベースにした検索は検索エンジンの検索能力に劣ると言わざるを得ない.
次に前者について述べる.検索におけるソーシャルブックマークの最大の強みはタグにある.タグは,ブックマークした側の人間が,そのブックマークの対象に抱いた感想やイメージの産物である.そして,ある情報を見たとき,それに対して抱く感想やイメージは大多数の人間にとって共通のものであることが多い.よって断片的な記憶を元に情報を検索したい場合において,断片的な印象を言語化したものであるタグを利用して検索を行うことは非常に効率がいいといえる.
これらのことから,それほど過去のことではなく,断片的なイメージしか記憶していない情報を見つけ出したい場合には,ソーシャルブックマークの検索を用いるということは有用であると考えられる.
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ブログ炎上過程に対するイノベーター理論の適用
06/06/17
さまざまなWebページを閲覧していると,時折炎上しているブログ,というものを目にことがある.しかし,「炎上」と一口に言っても,あるエントリに数百のコメントが付き,さらにそれ以降のエントリにも延々とコメントが付く場合もあれば,まとめサイトなどでは散々煽られているにも関わらず,炎上というには程遠い,ごく一部の者が騒いでいるだけ,といった場合もある.また一見炎上しそうに思えたため,しばらく観察していたにもかかわらず,結局万人が見て炎上している,と断言できるところまで行くことなく,中途半端なままに終わることも多々ある.
これらの違いとは何だろうか?
エントリ内容の違い,というのももちろんあるだろう.
しかし,大したことの無い内容であっても閉鎖に追い込まれている事例が多々ある現状を見るに,かならずしも内容だけで激しく炎上するか否かが決定されるわけではないように思える.
このような,万人が見て炎上していると言える場合と,そうでない場合がなぜ分かれるのか,という点について,本エントリではイノベータ理論を用いて説明を試みる.
具体的には,イノベータ理論では商品販売量過程となっていたものを,ブログ(サイト)の炎上過程とみなす.
また,以下の説明ではイノベータ理論について既知であることを前提とする.
イノベーター層
行動:間接的嫌悪の表明
同好の士だけで対象の批判,嘲笑を行う層.
または,2ちゃんねるネットウォッチ板トップに書かれている
「ウォッチ先
さわらず荒らさず
まったりと 」
を忠実に守る層
この層は,観察対象のブログ管理者自身や,彼らの書くエントリに対して嫌悪感や嘲笑をあらわにするが,観察対象に対して能動的にそれを伝えることはない(そのブログのコメント欄等を介してそれを伝えることはない).
この姿勢は,相互理解を放棄と言えるが,同時にそれは棲み分けがなされていることを示している.
少なくとも表面上では彼ら(観察者と観察対象のブログ管理者)の接触が起こらないため,論争やコメント欄が荒れる等が起きることもなく,この状態においては平和(冷戦とも言える)が保たれる.
このような表面上の平和が実現されるのは以下のように互いの利益が合致するためである
・管理者にとってはコメント欄が平静であるに越したことは無い.直接やりあうと相手側からのコメントによってコメント欄が荒れ,さらなる被害を呼び起こす可能性がある.
・観察者にとっては相手のエントリをネタに暇つぶしができる.珍獣観察的な行為の継続が許され続ける.
この層の増加は,観察対象のサイトが,大多数の人間の思考と乖離したエントリを書く,といった,悪い意味で注目を浴びること実現される.
そして,この層が十分に増加にしたとき,いわゆる「突撃厨」と呼ばれる,観察対象のブログのコメント欄に書き込むことで,直接的に嫌悪を表明する層が現れる.
これがアーリーアダプター層に相当する層である.
また,エントリの内容があまりにも大多数の感覚とかけ離れている場合,しばしばこの層が存在せず,次の段階であるアーリーアダプター層以降のみが存在する場合もある.
アーリーアダプター層
行動:直接的嫌悪の表明,扇動,そのための情報収集
イノベーター層とは違い,炎上させることを目的として動く層.
炎上において必要なのは,炎上させたい側にとって都合の良い情報(一方的に叩くための材料)が収集されていることと,それを対象のブログにそれほど興味が無い,まだ対象のブログを知らない者へ周知することである.ゆえに厳密にはこの層は,その行動によって「情報収集層」と「周知・扇動層」に大別できる.
また,行動によって分類するため,当然ながらこの両方を実行する者が存在する.
情報収集層は,過去ログを漁り,そこから得た情報を検索によって更に推し進めることで相手の個人情報を掘り出す,という行為を繰り返し,叩くためのより多くの材料を集めようとする.
そしてそれらの情報を「まとめサイト」という形で(印象操作を含みつつ)読みやすく外部に提供する.
周知層は,情報収集層が与えるまとめサイトや,炎上対象のサイトへのリンクを張り,対象のサイトがどれほど悪いのかを紹介(周知)する,これを担うのは,この揉め事が起きたジャンルについて詳しい羅列型ニュースサイトや,揉め事に鼻が利く日記的なブログである.また,2ちゃんねる発の炎上の場合に起きる,いわゆる本スレのある板とは別の板にスレッドを立てる者もこれに相当する.
これらの層の特徴は,対象となるサイトに直接介入しようとすることであり,この点において直接介入をほとんど行おうとしなかったイノベータ層とは対極にある.
この層が要求するのは「謝罪」または「閉鎖」であり,その点において妥協が一切ない.そして,要求を完全に押し通すために,相手の個人情報等を用いた脅迫じみた(時には脅迫そのものの)行為を行う(勤務先への電話等).また,逆に言えば,情報収集はこちらの要求を押し通すための手札を作るために行われていると言える.
また妥協点を持たないため,議論を行う必要がなく,よって彼らが書き込む内容は,常に原則論的な,反論のしようが無いものであることが多い.
彼らにとって重要なのは,対象のブログが炎上し,閉鎖・謝罪にいたることであるので,叩く材料が存在することが重要なので彼らは集めた情報の検証をほとんど行おうとしない.
このような周知層の行動によって,アーリーアダプター層の末尾にあたる「荒れ・揉め事に鼻が利く層」がやってくる.この層はまとめサイトを紹介する個人ニュースサイトに加え,まとめサイトにリンクを張り,ネガティブな感想を書く日記的なブログも含む.
そして,これがいわゆる大手孫ニュースサイトや,対照となるサイトが所属する分野についての情報をほとんど扱わないサイトが扱う(例えば他人の描いた絵を自分が描いたものだと偽って公開している,というような事を,サイト論を多く扱っているサイトが紹介する等)ことによって,「それまで興味の無かった人間を巻き込む」ことで,アーリーマジョリティ層に移行し,炎上が始まることになる.
アーリーマジョリティ層
主たる構成要素:直接的嫌悪の表明,被扇動
アーリーマジョリティ層が炎上を実現するのは,前二層に比べてその人数が圧倒的だからである.
大手ニュースサイトに紹介されたならば,それだけでおよそ5000程度の人間は流入する.そのうち1%をコメントを書き込むように仕向けられたならば,それだけでコメントは50に達し,普通のブログであれば,その時点で一人の人間の処理能力を超えるものとなる.さらに,彼らはまとめサイトを通じて,非難すべき点を与えられているために,そのコメントの大半はアーリーアダプターと同様に高圧的,かつ原則論的である.
また彼らの特徴として,そのほとんどがまとめサイトの内容を鵜呑みにして,相手を絶対悪だと見なし,まとめサイトの内容真偽について疑念を抱くことがない.よって彼らはアーリーアダプター層に扇動されるがままであり,その意味において,炎上というアーリーアダプタ層の目的は,彼らによって実現されるものであるといえる.
またこのようにしてアーリーアダプタ層に扇動される者たちは,書き込んだ時点で満足し,その後について関心を持たない.ゆえに,その後,まとめサイトに誤りがあったとしても,その情報を得ることが無いため,虚偽が彼らの中では真実として認識され続けることになる.
しかし,この層の中には,扇動されるだけの人間だけではなく,議論を行おうとする者も,少数ながら存在する.しかし,彼らの書き込みはそれ以外の扇動された者たちの謝罪や閉鎖を要求する大多数層によって圧殺され,届かないことが多い.
また,この層は扇動されて動くが故に,後々までのフォローを行おうとせず,虚偽の事柄を虚偽であると知らないままであることがままある.
レイトマジョリティ層
主たる構成要素:建設的議論,真偽の検証
遅れてくる人々.この層になると,既に炎上はおさまり始めており,同時にアーリーマジョリティ層に比べて,議論を行おうとする人間が増え,それまでではほとんど無視されていた,叩くべき根拠の真偽の確認が積極的に行われはじめ,炎上の終焉が近づく.
ただしここに来る前に管理者が耐えられず,閉鎖や謝罪を行っている場合も多く,さらに,叩くための根拠の周知がアーリーアダプター層によって行われたのに対して,このような真偽の検証はほとんど周知されることが無いため,それまでに来ていた人々,特に炎上の本命であったアーリーマジョリティ層には,そのような叩くべき根拠が偽であったとしてもそれが伝わることが無く,これらの行為はほとんど意味をなさないことが多い.
ラガード層
最後にやってくる人々.
おおよそ全ての情報を得ており,全ての真偽を知るが,この層が現れる頃には,完全に炎上は収束しており,時期を逃したこの層は,コメントも何も書かずに消えていく.
以上のようにして,イノベーター理論を用いて炎上過程を説明することを試みた.
おそらく,炎上する過程において,扇動する側と扇動される側には明確に違いがあり,それは能動的に情報を獲得して叩こうとする者と,受動的に情報を与えられて叩く者ではないかと考える次第である.
しかし,どちらにも共通するのは「叩くことが第一」という事であり,後から考えれば明らかにおかしい,と思える事柄が受け入れられているのは,この事が原因ではないかと考える.
以上.
余談は分家にて.
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インターネット上における「信頼」
06/05/20
前エントリ(実名の公開は信頼を保障するか)では,無名な人々(前エントリと同様に,これを無名人と呼ぶ)が住所,氏名,電話番号といったものを公開しても,それを証明するには閲覧者に多大なコストを要求するため実質的には何ら意味を持たず,しかもそれが証明されたところで得られるのは住所,氏名,電話番号が示す人間と,それを公開している人間が同一であるということでしかない,と述べた.本エントリでは,前エントリが正しいとするならば,なぜ無名人は住所,氏名,電話番号といったものの公開が信頼に繋がると考えたのか,という点について述べたいと思う.
これらのことについて述べる上で,念頭においておかなくてはならないのは「信頼」という言葉の意味である.
前エントリで述べたように,住所,氏名といったものによって得られるのが「存在の証明」であるとして,彼らの欲する「このサイトの管理者は(少なくとも自分にとっては)価値のある情報を出力してくれる」という種類の信頼,言いかえるならば「能力の信頼」は得られない(また以下の文章では「能力の信頼」という言葉を上記のように定義する).
そしてこの「実在の信頼」と「能力の信頼」という2つは全く別のものである.
それは例えば,タウンページで調べた住所に本屋が存在することと,その本屋の品揃え(本屋としての評価)とは無関係であるのと同じことである.
ならばなぜ,この二つが混同されるのか?
この点について考えるとき,キーとなるのはいわゆる「大手サイト」の存在である.
「大手サイト」の定義とは「多くの人間を集められるサイト」である.
大手サイトに集まる多くの人間は,その大手サイトの管理者が出力する情報に価値を見出したために,集まっている.
この観点において,大手サイトは上で述べた「能力の信頼」を得ていると言える.
そして,大手サイトの一部には,自分の所属する組織やそこでの地位(肩書き),氏名等を公開しているところがある.
存在の証明と能力の信頼とが混同される原因は,この一部の大手サイトの存在にある.
住所,氏名,電話番号を公開すれば「信頼」が得られると考えている無名人たちは
1.大手サイトの管理者は信頼されている
2.彼らの多くはその所属を明らかにしている
3.ゆえにバックグラウンドを明らかにするれば信頼を得ることが出来る
という論理展開を行い,しかし彼らにはさらせるだけの肩書きが存在しないために,仕方なく住所や電話番号を晒していると考えられる.
しかし,所属を明らかにしていない大手サイトが,それこそ山ほどあることからも明らかなように,「所属を明らかにすること」と「大手サイトであること」には何の関係も無い.
そして,バックグラウンドを公開しているのは,あくまでも大手サイトの「一部」である.
「一部」にしか適用されないバックグラウンドの公開という条件を,全ての大手サイトに共通する「信頼される」という事象に適用しようとする行為は,明らかに論理的に破綻している.ゆえに,サイトのバックグラウンドの公開と,そのサイト管理者に対する信頼との間には,何の関係も無いと言える.
しかし,このような論理の破綻に気づかないがゆえに,存在の証明と能力の信頼の混同がおきていると考えられる
さらに突き詰めて考えていこう.
では,なぜ,一部の大手サイトはそのバックグラウンドを公開しているのだろうか.
それは「信頼の獲得」とは全く違う次元のメリットがあるからに他ならない.
そのメリットとは,例えば執筆や単純な売名など,管理者の(突き詰めれば金銭的な)利益に関わるものである.
この例としては,ライブドアの堀江前社長や,楽天の三木谷社長のブログに代表される,いわゆる社長ブログが最も分かりやすい.
あらかじめブログを開設し,知名度を上げれば,あるサービスを公開したとき,または公開を考えているときにスポンサーや提携先が現れる可能性がある(低いがゼロではない)し,それ以上に,消費者と直接に触れ合うことでブランドとしての知名度を上げておくことや,ある程度消費者からの要望を吸い上げることもできる(おそらくこれは市場調査を行うだけの余力の無い新興企業にとって,コストがほとんどかからない,という意味で非常に有効であると考えられる.また社長という顔の見える個人であるために,組織が運営するものに比べて心理的障壁が低く,コメントを書き込みやすいという点もあると考えられる).
それ以外の例としては,フリーライター等の文筆業や学術系に携わる人間であれば,ある分野のことについて質の高い文章を書き続けることで書籍や雑誌コラム等の執筆依頼が来る可能性がある(これは実名を公開していなくても起きえるが,実名を公開している場合はコンタクトを取る過程の一部ショートカット可能である).
また単純に人脈の形成(何がしかの会合で実際に会った時に,「ブログ見てますよ」という会話を取っ掛かりにして親交を深める場合がある)にも用いられる.
つまり,一部の大手サイトにとってのバックグラウンドの公開とは,決して「能力の信頼を得る」ためのものではなく,「利益を得る」ために行われるものである.
そして,利益を求めてのバックグラウンドの公開においては有名無名は関係ない.
このようにバックグラウンドを公開している人々の何パーセントかが有名人,大手サイトと「なった」という結果が存在するだけである.
ならば「能力の信頼」を獲得するためには,つまりは大手サイトになるにはどうすればいいのか.
最初に述べたように,大手サイトが大手サイトである理由は単純だ.
彼らは,少なくともサイト管理者として有能であり,だから多くの人間が彼らは出力する情報に価値があると認め,彼らは大手サイトとなり得たに過ぎない.
すなわち,大手サイトとそうでないサイトを分けるものは,情報の出力装置としての管理者の能力(性能)である.
「多くの人間にとって価値があると認められる情報を,安定して,しかも頻繁に提供できるのか否か」
確かに実名を公開することは,読み手にある種の安心感を与える.この点については否定しない.しかし,同時に実名は安心感以外の何も与えない.
実名を公開していようが,電話番号や住所を公開していようが,そのことと有能無能との間には関係がない.閲覧者の安心感は管理者の能力の底上げなどしてくれはしない.
真に「能力の信頼」を得たいのならば,質の高い情報を出力し,積み上げ,また同時に管理者がサイト管理者としての能力を高めていくほか無いと考える.
結論.
管理者の背景は,サイトへの信頼には何ら寄与しない.
管理者への信頼を形成するのは,管理者の能力だけである
少なくとも,インターネット上においては.
以上.
以下,余談.
とてもとても普通の結論ですね.
長々と余談書くのはアレなんで,これから先こっちのエントリの余談は分家に投げる予定.
そんだけ.
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実名の公開は信頼を保障するか
06/05/18
様々なサイトを閲覧していると,しばしば自分の所属する組織やそこでの地位(肩書き),氏名等の,いわゆる「バックグラウンド」を公開している事例を目にする.そしてその中には,有名でない人々(以降「有名人」対応する単語として「無名人」と彼らを呼ぶ.ただし有名人にはインターネット上でのみ有名である人々,いわゆる大手サイト等の管理者も含まれる)が「自分の文章に責任を取る」と称して住所,氏名,電話番号といったものを公開している事例が含まれている.
しかし,無名人がそういったものを公開したところで,それが真であることを「周知の事実」とすることは非常に難しい.にも関わらず,彼らはバックグラウンドを公開することが,公開した当人にとっては「文章に責任を取る」こととイコールであると捉えている.
なぜだろうか?
この理由を考えるため,まず,本エントリではバックグラウンドの公開は責任を取る(信頼に値する)こととはなぜ無関係であるのか,という理由について考える.
そして次エントリでは文章に責任をとることとバックグラウンドの公開がなぜ結びついてしまうのか,という原因について考える.
本文をはじめるにあたって,語の前提を述べておく.
本エントリ,および次エントリでは「責任を取る」という行為は「信頼を得やすい環境を作る」「得られた信頼を裏切らない」ためにあると考え,「責任を取る」という言葉と「信頼を得る」という言葉が意味するところを同一のものとして扱う.
多くの無名人がバックグラウンドを公開するとき,それは住所,氏名,電話番号といったものである.これが有名人であれば,その所属する組織と地位であるのに対して,彼らがこのようなものをさらすのは,彼らは個人を一意に特定可能であれば,その発言には責任があると考えているからである.一意に特定する,という点においては,確かにその所属と地位を表明する必要は無い.例えば株式会社何々の何々部何々課長+名前+住所or電話番号ならば,その所属が無くともその存在は一意に定まる.
しかし,無名人の問題はバックグラウンドとして公開できるものが住所,氏名,電話番号といったものしかない(または公開できるものがそれしかない)ということにある.
バックグラウンドの公開における有名人と無名人の最大の違いは,その分類どおり有名であるか否かである.そして有名であれば,例えばサイト上で述べた行動予定とその行動の結果が公開されること(サイトに何々の原稿を書きました,と書いた後,それが実際に出版される等)によってネット上で名乗っている人間と,現実で名乗っている人間との存在の同一であることの証明が行われ,またそれ以外にも,そのつながりの広さから,同様に有名である他の人間によって存在が同一であることが証明される(この観点において互いにその存在を知る有名人同士は相互補完関係にあると言えよう).
しかし,無名であれば,当然同一性の証明は極端に難しくなる.先ほど述べたように有名であれば,多数のそれ以外の有名人によってその存在の同一性について証明されるが,無名であれば,その存在の同一性はそれ以外の人間によってはほとんどなされない.なぜならばそれ以外の人間もまた無名であり,それ以外の人間の存在が保障できていない以上,かれらによって保障される存在もまたとても希薄だからである(「信頼できる第三者」による同一性の証明がされていない).
ゆえに無名人の存在を,彼らが公開している情報を用いて証明するためには(例えばそれがハローページから書き写したものでないことを証明するためには),直接本人とコンタクトを取らざるを得ない.
そしてこれが無名人にとっての最大の問題である.
概して「信頼を得る」とは,信頼を得ようとする側が何がしかの行動を起こすことから始まり,信頼を与える側はその行動を受けて信頼を与えるかどうかを決定する.これはいわば取引であり,信頼を得たい側はコストを支払い,与える側はそのコストによって信頼という対価を支払っている.
しかし,直接本人とコンタクトを得ないと信頼が成立しないという状況とは,信頼を得ようとする側はほとんど何もコストを支払っていないにもかかわらず,信頼を与える側がコンタクトを取るというコストを支払い,さらに信頼という対価をも支払うという,信頼を得たい側がほとんど一方的に利益を得るという歪な構図である.
しかも,そうして得た信頼は,得たい側と与えた側の二者間でしか成立せず,それを周知の事実(信頼できる第三者による保障)とするためには与えた側がさらに「周知するコスト」を支払わねばならない.
しかも,そうまでして与える側がコストを支払って得るものは「そのサイトに書かれている氏名,電話番号は信頼に値する」という「存在の証明」だけである.
存在することとそれが信頼に値するかどうかは別問題である.
つまり,そうまでして支払われたコストに対する対価は
「書かれている番号に電話をかければ,書かれている名前でサイトの管理者が電話に出る」
という,「このサイトの管理者は(少なくとも自分にとっては)価値のある情報を出力してくれる」という種類の信頼とは全く別種のものである.
もし存在の証明だけでその人間に対する信頼の全てが証明されるならば,目の前にいる人間ほど信頼できる人間は存在しないことになり,極論を言ってしまえば詐欺師などという概念は存在しないはずだ.
結局のところ,コストを支払っても相手が利するだけで,こちらには信頼(しかも存在を信頼するという中途半端なものでしかない)を与えることしかできないといった状況を嫌う(どう良心的に見積もってもこれが普通であるのだが)閲覧者は,サイトの管理者など見ないで,記事だけを見てその記事の信頼性を測り,多数の記事について,その信頼性が十分であると判断したとき,サイト,ひいてはそれを出力する人間としてのサイトの管理者を信頼する.
これらの事から考ると,管理者の氏名や電話番号の公開は,常識的な損得勘定ができる人間に対しては,少なくとも信頼という観点からは何一つとして寄与しないと言える.
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