「可能性」という可能性
04/12/19
「在る」事を証明する事は容易だが、「無い」事を証明することは困難である
しばしば使われる言葉だである。これは、
存在の証明は、その存在を示しことのみによって成立するが、
非存在の証明は、存在を証明しうる全ての事象について、その非存在を証明する事でしか成され得ない
という事実に依る。
例えば、フェルマーの最終定理
n<2
を満たす全ての自然数について
X^n+Y^n=Z^n
を満たす、自然数X,、Y、Zは存在しない
が証明されるまでに途方も無い時間(三世紀半)かかった理由の一端はここにある。
XYZについて全ての数の組み合わせを考え、なおかつそれが全てのnについて証明できなければならない、という事が、どれほど途方も無い事であるかは理解できると思う。
では、「可能性」とはどういったものであるのか。
しばしば蓋然性とも呼ばれるこの言葉は、その主体が「成り得る」事を示す。
そして、この定義こそが「可能性」という言葉を、実は極めて扱いづらいものにしている。
ここで、「可能性」という言葉を、抽象的な意味で用いられる場合、即ち「進化・発展・拡張」という意味での「可能性」と、具体的な意味で用いられる場合、即ち「予測」という意味での「可能性」の二つに分けて考えてみよう。
但し、この二者はその根拠の強度によって分けられているだけであり、本質的には違いがない事を、予め述べておく。
さて、前者、即ち、可能性の指し示す主体が厳密に定義、限定されていない場合、その「可能性」は、主体が含む全ての事象に対して適用される。
例として
「ちゃぶろには可能性がある」
という、この文章を書くキッカケとなった一文を用いて説明しよう。
この文章に於いて、「可能性」の主体となっているのは「ちゃぶろ」である。
では、「ちゃぶろ」とは何であろうか?
今ざっと考えてみただけでも
・PUBLOGというblogシステムが実装されたblogサービス
・「ちゃぶろ」というPUBLOGの実用に基づく機能拡張
・企業主体ではない、非営利目的のblog
・各々のカテゴリについて最新の投稿に対してトップからリンクを張っていること
・ユーザのカスタマイズの余地が大きいこと
・個人情報を登録する必要が一切無い事(興味のある事等の入力の要求もされない)
という程度の事象は含んでいる。
つまり、主体を曖昧に取った場合、その「可能性」の主体は完全に読み手に依存する事となる。
結果、読み手全てにとって都合の良い解釈が可能になる。
これは言い換えれば、論点が読み手によって違う=論点の拡散であり、何も具体的に述べていない為、最終的には如何なる事象も示していないのと等価になる。
つまり、厳密に主体を定義しなければ、可能性という言葉は何も提示していない、出来ないという事になる。
次に、ではこの主体を厳密に定義した場合を考えてみる。
可能性の指し示す方向が記述されている場合、その「可能性」は過去の客観的事実を否定するものを除く、全ての時間軸に対して適用される。これが予測と言い換えられることは言うまでも無い。
先程の「存在」「非存在」の議論から、存在しない事を証明する事が困難である事を述べた。
そして、「可能性」が過去を除く全ての時間軸に対し適用される以上、同様に「可能性がない」事を証明する事は極めて困難である。
まず、時間軸が過去に起きた一点である場合を考えてみる。
例えば
「ニュージャージーに火星人が降り立った可能性がある」
という突拍子も無い事も、その可能性を否定する為には、実際に現地で調査を行い、火星人の痕跡と思しきモノが一切無い事を証明し、また近隣の住人が火星人らしきものを見ていない事を、嘘発見機等を用いて客観的に証明し、更に近隣の住人の中に火星人が偽装し、紛れ込んでいないかどうかを医学的にチェックする程度の事は必要になる。
そうして否定できたとしても、「完全に人間に化けられる」「我々の技術で感知できないだけだ」という言葉を否定できない。
そして、この事から
「ニュージャージーに火星人が降り立つ可能性がある」
という、前述のそれを未来に拡張したこの言葉は、誰にも否定が出来ない事は自明である。
つまり、可能性という言葉を用いさえすれば、どれだけ起こる確率の低い予測であっても、それを否定する事が困難である以上、肯定せざるを得ない、という事になる。
しかし、例えば
「俺ニュースが明日復活する可能性がある。しかも東京めたりっくのURLで」
と
「カトゆー家断絶が明日更新する可能性がある。今と同じURLで」
という二つの可能性について論じる場合、どちらも可能性という点では同一であるが、読み手がそれを信じるか否か、つまりその文章の説得力、信頼性については雲泥の差があると言わざるを得ない。
ではその差は何処から出てくるのか。
それが「根拠の強度」である。
上の例では、「更新状態」が根拠であり、過去の更新状況が強度を示す。
その根拠の強度が十分であれば、読み手も書き手もほぼ同じ物を見る、つまり、書き手の主張を正しく読み手に伝える事が可能になる。
この事から「根拠の強度が高い」とは、文章を裏付ける客観的証明が為されている、と言い換えることが出来る。
即ち、
対象を明確に記述し
その行動を予測し
それを客観的に証明する
という三点を満たす事で、初めて可能性というものは一つの意味を成し、読み手に書き手のビジョンを見せる事が出来ると当方は考える。
可能性という言葉を使う事は否定しないし。実際に当方もしばしばこの言葉を用いてもいる。
だが、書き手に明確なビジョンが見えていないのに、それが読み手に伝わると考える事は当然間違っている。
そして、明確なビジョンの無い可能性とは、結局のところ読み手に全てを丸投げしているだけで、何一つとして主張をしていない、出来ていない、人任せの無責任な行為だという事だけは、頭に留めておくべきだと考える。
まぁ、根拠の無い可能性の記述というのは、
「俺はやればできるんだ!」
と絶叫している馬鹿と何ら変わりは無い。
ただ、それだけの事だろうと思うのだが、如何。
以下、雑記。
ネタにしてもらえるうちが花だな、と思う次第。あ、当方エロ書きは無理なので。読む方は万事余裕ですが。
これを考えていた時、頭の中で
「ふむ、君がてくる君か。いや、そんなに畏まらなくてもいい。もっと楽にしたまえ。
・・・さて、本題に入ろうか。
君には、俺ニュースを再び管理してもらいたい。アカウントも既に確保してある」
との台詞をすくすく犬福に出てきた老紳士が喋った為、比較の部分があのような文章になった事を白状しておく。
別に薬とかやった記憶無いんだがなぁ。
あー、エロとGoogleみてえな馬鹿ネタ書きてぇ。
ネタの神様僕にエロ馬鹿ネタ下さいお願いします。
というか微妙に人様に喧嘩売ってるような気がしないではない。
12/20の明け方にちまちま修正ー
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( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー
Posted by rgy at 03:48