実名の公開は信頼を保障するか
06/05/18
様々なサイトを閲覧していると,しばしば自分の所属する組織やそこでの地位(肩書き),氏名等の,いわゆる「バックグラウンド」を公開している事例を目にする.
そしてその中には,有名でない人々(以降「有名人」対応する単語として「無名人」と彼らを呼ぶ.ただし有名人にはインターネット上でのみ有名である人々,いわゆる大手サイト等の管理者も含まれる)が「自分の文章に責任を取る」と称して住所,氏名,電話番号といったものを公開している事例が含まれている.
しかし,無名人がそういったものを公開したところで,それが真であることを「周知の事実」とすることは非常に難しい.にも関わらず,彼らはバックグラウンドを公開することが,公開した当人にとっては「文章に責任を取る」こととイコールであると捉えている.
なぜだろうか?
この理由を考えるため,まず,本エントリではバックグラウンドの公開は責任を取る(信頼に値する)こととはなぜ無関係であるのか,という理由について考える.
そして次エントリでは文章に責任をとることとバックグラウンドの公開がなぜ結びついてしまうのか,という原因について考える.
本文をはじめるにあたって,語の前提を述べておく.
本エントリ,および次エントリでは「責任を取る」という行為は「信頼を得やすい環境を作る」「得られた信頼を裏切らない」ためにあると考え,「責任を取る」という言葉と「信頼を得る」という言葉が意味するところを同一のものとして扱う.
多くの無名人がバックグラウンドを公開するとき,それは住所,氏名,電話番号といったものである.これが有名人であれば,その所属する組織と地位であるのに対して,彼らがこのようなものをさらすのは,彼らは個人を一意に特定可能であれば,その発言には責任があると考えているからである.一意に特定する,という点においては,確かにその所属と地位を表明する必要は無い.例えば株式会社何々の何々部何々課長+名前+住所or電話番号ならば,その所属が無くともその存在は一意に定まる.
しかし,無名人の問題はバックグラウンドとして公開できるものが住所,氏名,電話番号といったものしかない(または公開できるものがそれしかない)ということにある.
バックグラウンドの公開における有名人と無名人の最大の違いは,その分類どおり有名であるか否かである.そして有名であれば,例えばサイト上で述べた行動予定とその行動の結果が公開されること(サイトに何々の原稿を書きました,と書いた後,それが実際に出版される等)によってネット上で名乗っている人間と,現実で名乗っている人間との存在の同一であることの証明が行われ,またそれ以外にも,そのつながりの広さから,同様に有名である他の人間によって存在が同一であることが証明される(この観点において互いにその存在を知る有名人同士は相互補完関係にあると言えよう).
しかし,無名であれば,当然同一性の証明は極端に難しくなる.先ほど述べたように有名であれば,多数のそれ以外の有名人によってその存在の同一性について証明されるが,無名であれば,その存在の同一性はそれ以外の人間によってはほとんどなされない.なぜならばそれ以外の人間もまた無名であり,それ以外の人間の存在が保障できていない以上,かれらによって保障される存在もまたとても希薄だからである(「信頼できる第三者」による同一性の証明がされていない).
ゆえに無名人の存在を,彼らが公開している情報を用いて証明するためには(例えばそれがハローページから書き写したものでないことを証明するためには),直接本人とコンタクトを取らざるを得ない.
そしてこれが無名人にとっての最大の問題である.
概して「信頼を得る」とは,信頼を得ようとする側が何がしかの行動を起こすことから始まり,信頼を与える側はその行動を受けて信頼を与えるかどうかを決定する.これはいわば取引であり,信頼を得たい側はコストを支払い,与える側はそのコストによって信頼という対価を支払っている.
しかし,直接本人とコンタクトを得ないと信頼が成立しないという状況とは,信頼を得ようとする側はほとんど何もコストを支払っていないにもかかわらず,信頼を与える側がコンタクトを取るというコストを支払い,さらに信頼という対価をも支払うという,信頼を得たい側がほとんど一方的に利益を得るという歪な構図である.
しかも,そうして得た信頼は,得たい側と与えた側の二者間でしか成立せず,それを周知の事実(信頼できる第三者による保障)とするためには与えた側がさらに「周知するコスト」を支払わねばならない.
しかも,そうまでして与える側がコストを支払って得るものは「そのサイトに書かれている氏名,電話番号は信頼に値する」という「存在の証明」だけである.
存在することとそれが信頼に値するかどうかは別問題である.
つまり,そうまでして支払われたコストに対する対価は
「書かれている番号に電話をかければ,書かれている名前でサイトの管理者が電話に出る」
という,「このサイトの管理者は(少なくとも自分にとっては)価値のある情報を出力してくれる」という種類の信頼とは全く別種のものである.
もし存在の証明だけでその人間に対する信頼の全てが証明されるならば,目の前にいる人間ほど信頼できる人間は存在しないことになり,極論を言ってしまえば詐欺師などという概念は存在しないはずだ.
結局のところ,コストを支払っても相手が利するだけで,こちらには信頼(しかも存在を信頼するという中途半端なものでしかない)を与えることしかできないといった状況を嫌う(どう良心的に見積もってもこれが普通であるのだが)閲覧者は,サイトの管理者など見ないで,記事だけを見てその記事の信頼性を測り,多数の記事について,その信頼性が十分であると判断したとき,サイト,ひいてはそれを出力する人間としてのサイトの管理者を信頼する.
これらの事から考ると,管理者の氏名や電話番号の公開は,常識的な損得勘定ができる人間に対しては,少なくとも信頼という観点からは何一つとして寄与しないと言える.
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Posted by rgy at 21:57