04/08/28 02:04
7月28日に作成されたこのエントリには、コメントとトラックバックを合わせると、合計で200件近い反応がついている。もちろんちゃぶろの、いくつかのブログでも取り上げられていた。とにかく当時は反響がすごかったような気がする。
僕も祭りのような熱流に圧されるようにして、「なんとなく」という感じでエントリを開いてはみたものの、あまりの文字数の多さに加え、そこからどんどん派生していくトラックバック先を読んでくうちに、だんだんと脳ミソがグダグダになってきて、終いに面倒くさくなってきて途中で投げ出してしまった。あらためてゆっくり読み直したのはやっと昨晩になってからだった。
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それで、思ったことを書き出してみる。詳しくはエントリ&コメント・トラックバック等を読んでもらう事にして(あれは、もしかしたら読む気にならないかもしれないけど…)。
まず、「愛国心」には4種類あるんじゃないかと。
1.郷土、風土にたいしての愛
2.国民の国民性と、それがもたらす利益への愛
3.同族意識としての愛
4.国家への愛
"1"については、とくに思うこともない。
「美しい風景がある日本はいいなぁ」
「春はあたたか、夏はお祭り、秋は夕暮れ、冬は焼き芋みたいな、そういう四季折々があるっていいね」
「純米酒ウマー」
ほほえましく、文句のつけようもないです。こういう愛国心は、誰もが「アリ」と認めるところなんじゃないかと思う。
"2"も、あまり違和感は感じない。
「日本文学って日本でしか生まれようもないなぁ」
「日本の中小企業が、世界経済を支えてんだ」
「豊かな暮らしができる日本ってありがたい」
「妹萌え」
ここらへんも日本人の国民性がなければ成しえなかったものばかりで、そこから受けた恵みに愛を感ずるのも全然アリだと思う。
"4"はどうでしょう。これは、あってもなくても認められるようになってきました。
-----国家への愛をみとめ、君が代を歌い日の丸に敬礼しようとも、国家への愛を拒否し、君が代を歌わず日の丸に背を向けようとも、それはすべてあなたの自由意志に委ねる。もちろん、できれば国家に忠誠を誓ってほしいが、仮にあなたがどちらを選択したとしても、国家はそれで差別することはないし、それを理由にして、あなたを不当に扱おうとする行為を許さない-----
こういう考え方があり、それは国家としてわりと健全に思います。思想の自由をみとめ、国を愛する人も国を嫌う人も、同等に人権を保障しましょうというのは重要です。もともと、いろんな人がいて、いろんな理由からみんな、日本を愛したり忌み嫌ったりするわけで、そういう人間の結束が国家なのだから、どっちも認めますよ、というのが基盤としてないと駄目な気がします。
そして、問題になるのは"3"についてで、松永さんのエントリの大半は、この「同族意識への愛の是非」について述べられています。
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■「所属」を「自分」と思えない……って変ですか?
明らかにヘンです。というか、本当だったら人間として狂っているまで思います。これが、
『「所属があげた成果、罪悪」を「自分の成果、罪悪」と思えない……って変ですか?』
という書き方なら理解できるけど、所属を自分と思えないのはありえない。人類有史のなかで、人間はずーっと共同体というものに関わってきて、その枠組みがすでにアイデンティティにまでなっている現状で、もはや自分がどこに所属しているか、それを抜きにして人間は生きていけないはず。だいいち、松永さん自身の
いや、それどころか「自分は日本の文化の中で育った日本人だなあ」と思うことも多いのです。
という言葉と矛盾してきます。すでに日本の文化に松永さんは所属しているからです。ふだんはあまり意識されない感覚だけど、たとえば食器を使わずに手づかみでメシを食う異文化に触れれば「えーっ、手で食うの?」というふうに、意識せざるを得ない。すでに「所属」と「自分」は不分離なところまできている(*1)。たぶんここを混同してしまっているから、あとが全部「?」になっちゃったし、掲示板が荒れに荒れたんじゃないかと、そう思うわけです。
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■優れた日本人が多くても、あっしとは関わりのないことで
■「故郷に錦を飾る」というのも理解できないのです
たとえ優れた日本人がいたとしても、それが自分の功績や名誉にはならない…というのは分かります。むしろ必要な感覚です。ただ、エキサイト辞書で調べてみると、「錦を飾る」の意味は「功を成し遂げて故郷に帰る」ということらしいので、べつに地元出身者が錦を実際に飾るわけではないのだけど、ここはちょっと揚げ足取りかもしれません。
疑問なのは、たとえばある高校からJリーガーとかプロ野球選手が輩出されたときに、あなたが監督だったとして、「それは彼の能力が素晴らしかったためであり、わたしの指揮や練習内容とはまったく無関係」と思うかどうか? ということ。また、あなたが近所の商店街のおばちゃんだったとして、「かれのような偉い人が近所にいたから、私も偉いってことになるわね」と喜ぶのかどうか? ということ。
それは違うと思う。
監督さんの業績は彼の業績にふかく関わってきます。彼自身の能力に加えて、監督さんや部活仲間との連帯があったからこそ、彼の業績は生きてきます。だから、監督さんは「かれは私の誇りです」と思って当然だし、思っていい。逆に近所のおばちゃんは、そこまでは思わないけど、「なんか近所から偉い子がでちゃって、ビックリしたけど嬉しいわぁ」という感じでしょう。どちらかというと、ただ彼の功績を祝う気持ちのほうがつよいだけで、「かれは私の誇りです」のように、自分の手柄みたいに言うまではいかない。
自分の出身校の後輩たちがスポーツとかで素晴らしい成果を上げたとしましょう。しかし、それを「俺はあの○○高校のOBなんだ」と自慢する気にはなれません。自分はその成果に何ら寄与していないのですから。でも、選手たちには「よくがんばったね」とは言ってあげたいと思います――でもそれは他校でもまったく同じですね。
これは自分も言った事がある(笑)。もちろんなにも聞かれていないのに勝手に喋りだして自慢するという馬鹿なまねをしたわけではなく、聞かれたので答えたら感心してもらった程度だけど。でも、やっぱり感心してもらえるとちょっとは嬉しいわけで。
『自分がそこに所属していること』と、『そこで起こった事を、自分自身にも関係してくると思うこと』は、有機的に結びついているんじゃないかと考えます。そしてそれは所属のレベルが深いほど、つよくなっていく。監督は自分自身の功績と思うし、おばちゃんは、まぁ近所のあのやんちゃ坊主が…と喜ぶ。そして僕自身は、なにも関わっていないけど、間接的に所属していたってことで嬉しい。そういう話ではないかと思うのです。
オリンピックの光景で、金メダルを取った選手が、まず指揮してくれた監督に感謝し、ささえてくれた家族に感謝し、そして最後に自分の国に感謝したというのを見たことはないですか? それも「所属」がかかわってくるからです。
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■愛国心は、自分に自信を持てない人が対象を国にスライドしたもの
国を誇ることに一生懸命になって、自分自身のことを忘れてしまっているように見える人
は、たしかにいます。しかし、そういう人のために愛国心があるのかと考えると、これもちょっとヘンです。自分に自信をもてない人が、愛国心をひきあいにだすのはわかります。でも、愛国心のある人がみんな自分に自信のもてない人ってことにはなりません。
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■愛することは嫌うこと?
いわゆる排他主義ですが、ここだけが唯一愛国心に課せられた課題になると思います。ここから下の文章は、まぁまぁにおいて同意します。細かな考えの違いはあるんだけどね。やる気ねーw もう眠いです。ここまで4時間掛かってしまった…。
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(*1)すでに「所属」と「自分」は不分離なところまできている、と書きましたが、日本人がアメリカに移住して10年もすれば日本の所属は薄れていくことを考えると、完全に不分離じゃないですね。とりあえず、そのときにいる所属に、自分は影響を受けることになると理解してくださいです。
Posted by bone◆.BK/udqGpI
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