SS
06/05/08
暗い留置場の椅子に腰掛け、生きていれば何かいい事があるさ、と嘯く老刑事の台詞に、手錠を掛けられたその女は、ありったけの皮肉をこめた嘲笑を返した。
生気のない眼。
染み付いた隈。
ひび割れた唇。
蝋人形のように細い、その女の身体を包んでいる、ヤニ臭くシミだらけのトレンチ・コート。
枯れ木のように節くれだったその四肢には、無数の悪趣味な刺青と、そして醜い傷が刻まれていた。
刑事は溜息をつき、傍らの岡持から、ラップに包まれたどんぶりを取り出し、女の前に置いた。
―まあ、とりあえずこれでも食いな、ねえちゃん。
アンタも元BHの警官だっていうなら、こいつが懐かしいだろう。
BH食堂名物の南瓜ほうとう、通称、貧乏涙饂飩と来たもんだ。
どんぶりから漂う臭気に、女は一瞬目を丸くし、そして次の瞬間、あからさまに不快そうな顔をして、吐き捨てるように呟いた。
…ゲロの味がする奴だろう、これ。
にやつく刑事に毒つき、女は一瞬その顔面にどんぶりをぶっ掛けてやろうかと思ったが、思い直して、諦めたように箸を取った。
別に腹が減っていたというわけではなく、ただ単に、とっととこの場を納めて、このいやらしい男の前から退散したかったからだった。
大人しく言われたとおりにしていれば、この手のくだらない説教はすぐ終わる。
諦観に沈んだ顔で、女はのろのろと、その臭い食べ物を口に運んだ。
ヌルヌルに柔らかい麺は、口の中であっけなく溶けてしまい、かつて彼女が刑事だった時代、BH食堂で最初にこれを食べた時、何だこれ、腐ってんじゃねえのか!と、女将に突っかかった事を、ふと思い出した。
これがウチの仕様だよ、嫌なら他所で食いな!、と怒鳴り返したその女将に、もし先輩刑事が止めに入らなければ、殴りかかっていたことだろう。
不味い汁の味に乗って、なぜだかあの時の記憶がぽつり、と蘇ってきて、目を瞑ると、懐かしい顔ぶれが、頭の中を過ぎっていった。
…尊敬していた先輩。
子犬のように懐いていた後輩の子達。
無茶ばかりしていた自分を見捨てず、最後まで信用し続けてくれた上司。
そして、無謀で鼻持ちならなくて、いつも貧しくて、それでもどこまでも正義感に満ち溢れていた、あの時のタフな自分…
目を開けると、当時の面子が、今でも笑顔で待っているような気がする。
でも、実際にそこにあるのは、
ただ、冷たいだけの現実。
壊れてしまった身体。
消せない過去。
失くした10年。
駄目になった自分。
そして、死んでいった人達…
消し去ったはずの想いと共に、枯れきったはずのその両の瞳から、いつしか涙がぼろぼろ、と零れ落ちて、彼女は耐えられず、天井を仰いで叫んだ。
どこから狂ってしまったんだろう?
椅子に思いっきり叩き付けたその左の拳は裂けて血が溢れ、そして女は机に伏せ、畜生、畜生と泣き喚いた。
老刑事は煙草を吹かせ、鉄格子の向こうを見上げながら、ただ、月が綺麗だなあ、と、ぼんやりと呟いた。
女は涙を拭いながら、残りの麺と汁を、一息に啜りこんだ。
乱切りにされた南瓜の塊が胃の中に流れ込み、女は思わずむせ返って、その一部を床に吐き戻してしまう。
もう、どんぶりの中にわずかに残っただけのそれは、かつて散々文句を言いながらも食べ親しんでいて、なのに今の彼女には、もう飲み下す事ができなくなった程、
青臭くて、ぬるくて、荒削りで、泥臭い不味さで、
…けれでも、世界で一番、眩しい味の食べ物だった。
Posted by ZOHN at 10:34